小説

こうやってやればいいんでしょでは誰も得しない|考えることを強制される世界で

「こんな具合に進めていくと良いと思うんだ」とAは言った。
「そうかな……」とBは答える。

 Aが提案している。Bは面倒だと思う。提案を通したいAは説得しようとする。Bは面倒だと思いながら、その提案を受け入れる。Bはその提案に沿うように物事を進めていく。でも本心ではやりたくないと思っているので、言動やアウトプットされた資料には、その気持が見えてしまう。Aはそれを見る。自身が提案したイメージとの差に違和感を覚える。

「受け入れてくれたじゃないか」とAは言った。
「もちろんそうだけど」とBは言った。
「けどってなに?」

 Bは本心を漏らしていたことに気づき、またBはしぶしぶAの提案にしたがって物事を進めていく。Aはいったん落ち着くが、またこれを繰り返すのだろうと、Aも、そしてBも思う。

 これはよくあることだ。どちらが悪いのだろうか。いや、そもそも悪いという考えかた自体に意味がない。このようになってしまう原因は、Bが断れないことにあると指摘する人もいるだろう。本当にそうだろうか。確かに、BがAからの提案を受け入れることが無ければ、どちらも嫌な思いをしなくて済んだ。しかし、それではBが可哀想だとも思う。

 BはAの提案に対する自身の意見を持っていない。こうしたい、こうあるべきだ、というのがない。それがない中で、Aの提案を断ることができるのだろうか。断りを入れるときのコツは、理由を伝えることだ。このような理由で、あなたの提案を受け入れることができません。その理由が筋の通ったものであれば、相手は納得して引き下がるだろう。

 しかし、今回のようなBの状態では、断るための明確な理由を準備することができない。意見があるからこそ、理由が生まれるのだ。Bが頭の中に浮かんでいた、面倒だとか、やりたくないというのは、筋の通った理由ではない。理由として弱すぎる。BはAが提案する内容に対し、意見を持ち、実行可否の判断を明確な理由をそえて発信する必要があるのだ。

 だが、すべての物事に対し意見を持つことは可能だろうか。意見を持つということは、その物事に対し考える時間があるということだ。でも時間は有限で、人々は生活のためにその時間を使ってる。ほとんどの物事は「どうでもいい」のだ。

 人は動物だ。動物は目の前のことに集中するようにできている。今を一生懸命に生きるように脳や身体はできているのだ。過去や未来を同時に考えることはできない。今を考えているときは、今に集中している。

 意見の幅は、興味の幅とイコールである。どうでもいいことに時間を使おうなんて思わない。興味があるから、見たり、調べたり、考えたりするのだ。どうでもいいことは、どうでもいい。大事なことは、大事。

 ここで言う「どうでもいい」は、「何も変えないでくれ」だ。

 変化していくことはポジティブに捉えられることが多いが、変わらないことも大事だ。環境に合わせて進化しているんじゃなくて、進化した生命体が、偶然環境に最適な形だったから、我々は現在に生きているのだ。