小説

彼女の振動

 僕は飼われていた。

 彼女はとても綺麗な声で、何度も僕の名前を呼んだ。

 僕がこの家に来てから何回呼ばれたのだろうか、何百回、何千回、何万回。あるときは笑顔で、あるときは怒って、あるときは落ちこんでいる様子で僕を呼んだ。

 彼女に呼ばれた僕は、「にゃー」と返事をして彼女のもとにすり寄った。

 そして彼女は僕を何度も抱きしめた。彼女の腕は温かくて、僕を幸せな気持ちにさせ、その度に僕は、人間の腕はこうやって何かを幸せな気持ちにするために作られたのかもしれないと思った。

 家の中ならどこへでも付いて行った。トイレ、キッチン、ソファー、ベッド、バスルーム。彼女が現れたら、「にゃー」と言って彼女の脚に体を擦り付けた。

 寝るときは僕が先にベッドに潜り込んで、彼女が来るのを待った。


 「いってくるね」

 平日の朝はいつも忙しそうにして、食事だけを置き、僕に構うことなく外に出掛けていった。他の家族も同様に忙しそうにして出掛けていった。

 彼女が元気な朝もあったし、暗い朝もあった。なんだかよく分からないけれど、外の世界には彼女にとって重要な物事があるようだった。僕は家の中のことは知り尽くしていたけれど、外の世界はこれっぽっちも知らなかった。外に出掛ける用事もない、だってみんなちゃんと帰ってくるんだから。

 僕は彼女を玄関で見送ってから、夕方まで気ままに過ごした。隙間に体を押し込んだり、体を広げて眠ったり、ご飯を食べたり、壁を引っ掻いてみたり。飽きたら玄関で体を丸めて、彼女の帰りを待った。

 扉が開くと僕は「にゃー」と言って迎え入れ、彼女は僕を抱きかかえて僕の名前を呼んでから「ただいま」と言った。やっぱり彼女の声は綺麗だった。

 家に帰ってきた彼女はいつもパソコンに向かって作業をしていた。

 ある日、僕にこう言った。

 「みて、これが私の作った音楽だよ」

 パソコンから彼女の綺麗な歌声と美しい音楽が聴こえてきた。とても居心地が良かった。

 「この曲、あなたに作ったの」

 画面を見ると、線が波打っている。これが音楽なのだろうか。

 「音は空気の振動なの。空気を揺らして耳に届く。それを目に見えるようにしたのがこれ、波形だよ。音を波形で見ると山にも見えたり、住宅街に見えたり、都会のビルに見えたりして不思議に感じる。そこには生活があって、物語があるの」

 僕は黙って彼女の微笑みを見ていた。天使みたいだった。

 「って、そんなこと言ってもわからないか」と彼女はいたずらに笑った。


 音楽を聴かせてくれた日から、一年ほどして彼女は深刻そうに僕に言った。

 「私、東京に行くことにしたの」

 彼女はいつものように綺麗な声だったが、少し寂しそうだった。

 「東京」が僕にはよくわからなかったけれど、「にゃー」と返事をした。

 「東京は遠いところだから一緒に行けないの、寂しい?」

 「私、一人でやっていけるかな、大丈夫かな」

 「応援してくれる?」

 僕はそれに応えるように鳴いて返事をした。

 「ありがとう」と彼女は嬉しそうに言った。

 数カ月後、彼女は「東京」に行った。

 出掛けるとき彼女は名残惜しそうに僕を抱きしめた。

 「あなたに私の音楽が届くように、頑張るね」


 僕は彼女が出ていってから、より一層暇になった。家族が出す食事を食べ、爪を研ぎ、適当に家族にちょっかいを出しては疲れて眠った。

 一ヶ月が経過し、僕は不安になっていた。彼女が帰ってこないのだ。たくさん荷物を持って出掛けることはたまにあり、長くて一週間もすればたくさんのお土産を抱えて帰ってきていた。でも今回はいくら扉の前で待っていても、そこから彼女が現れることはなかった。

 僕はとにかく彼女に会いたかった。たぶん、彼女だって僕に会いたいはずだ。彼女が帰ってこないのならば、僕が会いに行くしかない。

 「この家を出よう」と、すぐに決心した。

 僕は次の日の朝、たくさんご飯を食べ、たくさん水を飲んだ。お腹を満腹にしてから、家族が出掛けるタイミングを見計らって、玄関から外に出た。空は眩しくて大きかったし、鉄の塊がものすごいスピードで走っていて怖かった。でもそんなことは関係ない、彼女に会いたいのだ。

 僕は眩しく光る方向へひたすらに歩みを進めた。彼女はいつだって優しく輝いていたから、光っているものの先に彼女がいると思ったのだ。

 昼の輝きと夜の輝きでは、光度の違いはあったものの、僕は概ね同じ方向に進んでいた。しかし、何日歩いても彼女の元へはたどり着かなかった。

 そして僕は数ヶ月、もしかすると数年、いやたぶん数十年、彼女と会うことは無かった。僕はお爺ちゃんになった。彼女とは会えず、新しく住み着いたこの町で、この世を去っていくだろう。

 僕は外の世界の厳しさを知った。食事は誰かが持ってきてくれるわけではないし、あの寝心地の良いベッドも無い。縄張りを争ったり、獲物を取り合ったりして日々戦って生きていた。あの家に戻りたい、でも戻れない。そして、彼女には会えない。もう疲れたよ。

 そんなある日、どこからか音楽が聴こえてきた。耳に馴染む、綺麗な音楽で、僕は自然とリラックスしていた。

 その音楽は、昔、彼女が僕に聴かせてくれたメロディだった。

 「これは大事な存在に向けて作った音楽です」と彼女は言った。その声は紛れもなく彼女だった。

 「君の音楽は届いたよ、夢が叶ったね」

 僕の心が安堵に包まれ、彼女の懐かしい綺麗な声と、幸福な匂いに包まれたような気がした。

 月明かりがが僕を囲い、安らかな眠りに誘引する。

 「ありがとう」と彼女は耳元で囁いた。

 美しい月の光が僕を包み、次の世界に連れていった。